エレムルス
Difference between love and pureness of God
肉の焼ける音と匂いが、やけに鮮明に感じられた。ついで、体の一点、首筋に強く強く、痛みが訪れた。 吐き捨てるように声が落ちる。 「掟を破りし愚かな、汚らわしいけだものの血を引く娘よ。その身に刻んだしるしは罪人の証。神を穢せし罪を背負い、朽ち果てよ」 お前が死ねばいいのに。 少女の声は、言葉にはなっていない。だが、目の前の老人にだけは正しく伝わったらしく、皺に埋もれた金の瞳が和らぎを見せた。 「……それも、よかろうよ」 少女は気づかなかった。少女の声に老人の表情と声に、かすかな憐れみがにじんだことを。 後ろ手に縛られ、猿ぐつわをされた少女は暗い室内から連れ出され、罪人の処遇として、川に突き落とされた。 深く、暗い水にか細い身体はたやすく飲みこまれ、あっけなく沈んだ。流れの中、少女はもがこうとはせず、身体の力を抜いて目を閉じていた。 ――私はあいつらを呪う。苦しめばいい。私がそうしてやる。 ひときわ大きな流れにざぶりと身を沈めながら少女は思考すら、水に溶かした。 * 母は美しい女だったと言う。神に愛でられるべきと褒めそやされ、その通りの地位についていた。 そんな母は、罪を二つ犯したのだと大人たちは言った。一つは腹に誰ともわからぬ男との子を宿したこと。一つは神の御姿と預かっていた神宝を旅の男にだまし取られたこと。 母は、美しい女ではあったが知恵はなかった。ただただ、純粋だった。 村を統べる長は母の父であったが、かばうことはなかった。むしろ、激しく激高し、表だって責め立てた。それほどに、母の罪は重かったのだ。 母は犯した罪の重さを責める声に耐えきれず、身体どころか心までをも壊し、ある日姿を消した。そしてそのまま、戻らなかった。少女は母の罪が露見してすぐに粗末な牢小屋に移され閉じ込められていたが、話は全て聞かされていた。 ――お前の母は罪をおかした。お前の母は身体を壊した。お前の母は心も壊した。お前の母は、いなくなった。 聞かされる言葉に少女はなんの反応もしなかったが、母が消えたと聞いた時、小さく頷いて見せた。自分がどうされるか、わかっていた。そうして、その通りに、少女は神の怒りをなだめるために、川に突き落とされた。 * どん、と響いた衝撃に目を開ける。目の前には男の顔があった。閉じられたまぶたのせいで、視線は交わらない。 「起きたか」 「あんた、誰……」 「どこか痛むところはないか。気分は悪くないかね」 穏やかな声で発せられた問いに、びくりと身体が跳ねた。痛むところ。川に流されたのだからもちろん無傷ではないが、綺麗に洗われているし、手当も済んでいる。 あちこちに手をあててみて、手当ての済んだ傷以外はないことを確認する。大丈夫、と言いかけて、少女は顔をしかめた。 擦り傷切り傷の他に腹が痛むと訴えると、ああ、と得心した声を男は響かせた。 「悪い。それは私が先程蹴ってしまったからだな」 痛むのならば見せてみろと男は少女の腹に手を伸ばそうとすると、男の背後からするり、細い指が雪崩れるように現れた。 「主様ったらひどい人。お呼びとあらば何をおいても馳せ参じますのに」 拗ねる口調で男の首筋を爪先でつるりと撫でて、女は言う。 青黒い髪に、黒い目。額には花をかたどるような赤い印が三つ、飾りのように輝いている。単衣の裾をさらりとさばきながら少女に近づき、女は手早く腹を診た。 「大したことはありません。痛みはじきにひきましょう。まずは食べるが先決」 女は微笑んで言った後、膳を差し出した。少女は膳を前に一度黙した後、頭を垂れて箸をとった。 食事に毒が入っているかなどと、彼らを疑う必要はなかった。だってすでに、一番近しい者たちに、命は一度捨てられている。 少女は年の割に賢しかった。そして目の前に出された膳はまだほのかに温かく、優しい味わいで少女の腹を満たした。 出された食事を口にしながら、名と出自を聞かれて答えた。男がふむ、と息を吐いた。 「神贄の村から来たのか。選ばれた娘が子を産んだと聞いたが、それがお前だったか。神の子と崇め奉られてもおかしからぬ出自なのに、さてはうとまれたか?」 「……神宝を旅の男に渡して、咎められたら気が触れてどこかに消えた」 「ほう。それで? その腹いせに神が贄を求めてお前が川に入ったのか」 「作物の実りが悪くなる前にと、長老と村の若衆長たちの前で突き落とされた」 「体よく厄介払いされたわけだ」 否定の言葉は出てこない。扱いにくい娘。村の中では確かにそうだったのだから。 俯いたままでいると、まぁいい、と男の柔らかい声が降った。 「とりあえずお前は生きているし、まずは食べて眠るといい」 ゆっくりおやすみ。男たちは優しく言うと、立ち上がって出て行った襖の向こうには目に優しい色合いの木々に囲まれた池が目に入った。 目覚めてからの時間はほんの少しだと言うのに、少女は膳の中身を平らげてしまうと強い眠気に襲われて横にならざるを得なくなった。 眠りにつきながらどす黒い感情は表には出てこずゆらりと揺らめいているのを感じていた。 * 「神贄の村から娘が流された、か」 少女が目にした池のそばにたたずみ、男は袖の中で腕を組んでいた。足元には青い蛇がとぐろを巻いて男の言葉に耳を傾けている。 男の声音に何かを感じたのか、蛇が鎌首をもたげた。三つの赤い目が、男を見やり、のそりと動き出す。 「しかも首には焼印と。全く、人は愚かなことを思いつくものよ」 『いかがなさるおつもりですか』 「好きにさせるよ。傷が癒えたら当たり障りない別の村、いや、別の国でも送ってやろう」 『……主様。野放しは軽率かと。お気づきになられませなんだか。あの焼印から、強い念を感じました。娘は、あの村を呪っております』 男はむうとうなり、応えないまま、袖から手を出して蛇に向けた。束の間蛇は戸惑うようにちろちろと舌で指先をうかがっていたが、やがて対の牙を指へと突き立てた。 『失礼しました』 蛇の牙が抜けると、男の指には穴が二つ空き、すぐに血の珠がぷくりと浮き上がる。男の指を伝ううち、紅い血は紫色へと変わり、池へと一粒二粒、と落ちて行く。 男は黙したまま、紫の血の珠の行く末を見守り、指の穴を懐から出した布で覆った。 「……人は、本当に愚かだ」 『娘の恨みの心を使ったのですか。無体なことを』 「己が負った業は己が力で購うものだ。私はそれが捻じ曲げられぬようにしかできない。あの者たちが行ったことは呪。だから跳ね返されても文句はなかろう」 赤い目が微かな心配と咎めの色を浮かべているのになだめるような笑みを浮かべ直し、 いずれ、気付き、知るだろう。池から離れるために歩きながら、薄く笑んで男はつぶやく。 「自分たちがしでかしたことの意味を、罪を。私は彼の村のことなど忘れることにする。慈しむべきものはもう、いないのだから」 傲慢ささえ感じられる言葉は支配する者のそれで。蛇ははいと応えて池を去る男の後を追った。 * 再び目ざめると、身体がとても軽くなっていることに気付いた。普段は思わないが、眠りと食事は欠かせないものだと実感する。 鈍い痛みは変わらないが、それでも遠のいたことを確かに感じた。改めて礼をせねばと少女は決めた。 「目が覚めましたか。朝餉をどうぞ」 女がするりと襖の間を滑るようにして部屋へとやってきた。椀がいくつも乗った膳を危なげもなく置いて少女に笑い掛ける。 食事が終わったら、主様からお話がありますよと女は言って部屋を出て行った。温かい食事は、眠る前と同じく優しく少女の心を溶かした。 食事の後、別の部屋で少女は改めて男の前に座って耳を疑う言葉を聞いた。 少女を川に流した村はもう、誰もいないのだと。 「まさか。私が流されてあまり時間も経っていないのに。なぜ誰もいなくなる」 脳裏に浮かぶのは、最後に目にした村の長の後ろ姿だ。自分たちが救われるために他人を犠牲にした愚かな人の筆頭。 彼が、やすやすといなくなるものだろうか。守った村を、むざむざとなくすものなのか。 「私は嘘を言っていない。神贄の村は、もうない。お前が目覚めた頃、賊が村に押し入ったそうだ。あとは、わかるな?」 「もう、本当に誰も、いないの……?」 「探し出すか? 私ならばたやすいこと。お前がそれを望むなら」 男の言葉に否と告げる気は起きなかった。娘はかんなぎではなかったが、男も、後ろに座る女も、人の及ばぬモノだと、過ごすうちに感じとっていた。 だからこそ、先程告げられた村が滅んだと言う男の言葉も、頭では理解できた。だが、信じたくはなかった。 どうする?と尋ねる声に、言葉なく首を振った。手足の力が急激に抜けて行くのを感じ、うつむく。 泣きたければきちんと泣け。男に言われて初めて、泣いていることに気付いた。 ちり、とつけられた焼印がかすかにうずき、また涙がこぼれた。 何の感情から涙がこぼれるのかわからないまま、男に背を撫でられ続け、少女は泣き続けた。 「強い娘だ」 泣き疲れて眠りこんだ少女の髪を撫でながら、男はひっそりとつぶやいた。 すでに呪いとしては成り立たないほどには念を抜いたものの、人の心はわからない。けれど、少女は叶わなくなった復讐にしがみつくことはなかった。ただ、泣いた。 その涙の意味を、男は知っている。復讐が叶わなくなったと悔いからのものではなく、孤独を知って泣いたのだと、男だけが知っていた。 「お前の母は、花のかんばせと幼き心で神の愛を得た。お前は、その賢しくも清らかな、傷つこうとも落ちない心こそで同じことを成し遂げられようよ」 愛しい娘よ。男は微笑みながら少女のそばを離れる。最後にふうと首元に息を吹きかけると、焼印は白い花となり、ひとつこぼれて男の手の中に落ちた。 了 |